2010年2月 1日
道路としての山陽道
古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面を影面(かげとも)、北斜面を背面(そとも)と呼び、ともに日縦である山陽道を影面の道と、山陰道を背面の道とも呼ぶようになったとされる。
山陽道は時代背景により、以下のように区分し称される場合もある。
律令時代の山陽道は、畿内(難波京、平城京、平安京)と北部九州(大宰府)を結んでいた。当時の日本は中国の交通制度にならって「駅制」と「伝制」を導入した。律令時代の移動伝達の構想として、駅路と伝路からなる交通網を維持し、それらを利用した駅伝制を整備することにより中央集権を機能させようとしたことが伺われる。すなわち大化2年(646年)の詔勅に「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)とあり、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備を行うことを意図したようである。
「駅制」(駅路)は、中央と地方の情報伝達を目的に設けられた緊急通信制度で、目的地に最短距離で到達するように直線的路線をとって計画的に敷設され、幅10メートル前後の大道であった。七道のそれぞれに駅路が引かれ、30里(約16キロ)を基準に 駅家(うまや・やくか)を配置し、定められた駅馬(えきば・はゆま)を置き、駅使の休憩・宿泊に備えた。駅家は既存集落とは無関係に計画的に配置された。駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分されたが、中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部は、外国の使節が通行し宿泊する事が想定されたため、七道の中で唯一の大路に格付けされ最重視された。また中央と東国を結ぶ東山道・東海道が中路、それ以外が小路とされていた。
「伝制」(伝路)は、日本では国造などの地方豪族が分担した交通制度があり、これをもとに主に国府と郡衙・郡家を連絡する路線として整備した。駅制は令に詳細な規定があるが、伝制は令にほとんど記載がないため従来その実態の解明が遅れていた。伝制に基づく伝馬は郡家に置かれ、伝使(公用旅行者)の宿泊と食料の供給を行った。伝馬は郡家間を繋ぐ道路を通ったと思われるので、これが伝路と呼ばれている。郡家は旧来の地方中心地に置かれることが多く、これを結ぶ道路は古くから存在していたが、これを改良して幅6メートル前後の直線道路にすることが多かった。 「事急ならば駅馬に乗り、事緩ならば伝馬に乗る」(『公式令集解』)と、緩急二本建ての構想であったようである。
この駅伝制は、 8世紀に制定・施行された律令において詳細な規定がおかれた。大宝元年(701年)の『大宝律令』の厩牧令(くもくりょう)では、駅の設置は大路30里(約16km)毎に一駅が原則であった。駅家に置く駅馬は、大路で20疋、中路で10疋、小路で5疋と定められており、諸国の間の緊急連絡、公文書の伝達、特別の要務による官人の旅行などに用いられた。駅馬を使者が利用するには、駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行する必要があった。駅鈴は、使者の位階によって剋(きざみ)数がことなり乗用の駅馬の数が示され、剋が多ければ利用できる馬数も多くなった。駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使(せんし)方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使(ていそうし)方式があった。8世紀頃は逓送方式が取られ、専使は使者本人の口から文書の補足が必要な場合などに派遣されていた。しかし逓送方式の信頼性が失われていき、9世紀後半以降は、専使方式が中心となった。駅使(えきし)の行程は、緊急の場合は一日10駅以上、普通でも一日8駅以上とされていたようである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
山陽道は影面道、光面道とも言われるようですね。
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